夢十二夜

架空派で知り合いになった敬愛する作家さんのおひとりが、とあるサイトで上げていた作品に、夏目漱石の『夢十夜』を元に書かれたものがあり、それがたいそう心に響きました。
恥ずかしながらそちらを真似して、私も何か書いてみたいなー、と単純な気持ちでつい、書いてみたものです。

キーワード #夏目漱石 #夢十夜 #幻想譚

 こんな夢を見た。

 

 どの仔でも良いですよ、可愛いでしょうと店主が頭上から声を掛けてきた。ちらと顔を上げ、照明を遮って此方(こちら)を見降ろしている男に目をくれる。男は笑顔を浮かべているようだが、表情は茫洋として、得体が知れない。輪郭を掴んでやろうとしても、私の視線はずんずんと脇へ逸れていってしまう。何処から何処までが顔なのか、何処までが彼の範囲なのか判然としない。

 境界を探すのを終に諦め、私は床に拡げられた若草色のブランケットに目を戻した。そこで犇(ひし)めき合い可愛らしい鳴き声をあげているのは、裂き烏賊(いか)であった。幅二センチメエトルにも満たない裂き烏賊は、どれを取っても同じ様なベエジュ色で形もあまり違わない。私の手に少しでも近付きたいのであろう、裂き烏賊たちは或るものは身をくねらせ、或るものは細かく震えながら押し合いへしあいしている。大社の縁日で見かける景色とそっくりだ。夜店で雛(ひよこ)を品定めしている気になってくる。鳴き声は小さな鈴をいくつも振っている様だった。

 家内の誕生記念を買いに出たのは良かったが、呉れてやるものが何も思いつかぬ。散々考えて悩み抜いた揚句に頭が空っぽになった折、丁度通りかかった店の飴色の灯りに吸い寄せられて、何の気無しに入ってしまったのだった。入ってからどうも此処は昨今流行りのペツトシヨツプなるものだと気付いた。ならばせめて余り嵩張らぬ、ほんの手元で愛でることのできる愛玩動物を、と思い、店の中を丹念に見て回り、つい裂き烏賊に目が行った。

 しかし未だ、決め兼ねている。予算的には裂き烏賊が妥当かと思っていた。私自身は本当ならば、店の棚に並んだ立派なゲエジの中にある、半乾きの生椎茸が欲しかった。傘が形よく丸まると盛り上がり、縁が奇麗に内側に巻いていて、軸がむちむちと太い椎茸が丁度頃合い良く半乾きの状態で奇麗に並んでいる。しかし店主が言うには、椎茸は今一番の人気でもって安いものでも一個八〇万円はするとの事であった。なんでも、三丁目の金満家の娘と駅前の旅館経営者の奥方とが、最高級の椎茸を取り合いして互いに全く譲ろうとせず、終には訴訟になったと言う。三丁目の金満家も駅前旅館にもまるで覚えがなかったが、私は取敢えず話を合わせるためにうん、そうかと頷いていた。店主の口調は澱み無く、私が買いたそうな気配を察したのか、更に饒舌となった。その点、裂き烏賊はお手頃ですよ、飼い易いし、お客さんはどう見ても初心者だ。初心者ならばまず裂き烏賊でしょうよ、とさらに茫洋とした笑みで言い足す。橙色の裸電球が店主の産毛だったような白髪頭の周りにぼやけた光輪を作っていた。

 結局、手の甲に登ろうと伸び上がっていたやつを買うことに決めた。他のやつと比べてわずかに細身で、端がささくれている。こいつは余り長く持たないだろうと思った途端、可哀想になって選んでしまったようだ。

 手続きに要るとか言う書類を何枚か書いている間に、店主が閉じ口の付いたプラスチツク袋に裂き烏賊を入れて来た。空気がまるで入っておらず、袋は殆ど膨らんでいない。中の裂き烏賊は全く動こうとはせず、私は心配になって店主に尋ねた。店主はからりと笑って「だいじょうぶ、三日はもちますよ」と言った。

 裂き烏賊が実際に幾らだったのか、どうしても思い出せない。ただ、カアドで一括払いの手続きをして、残高は多分大丈夫だと感じた程度であった。

 帰りの電車で、それでもやっぱり八〇万出して椎茸にすれば良かっただろうか、と微かな後悔とともに、手にした袋を目の高さに持ち上げる。裂き烏賊はいつの間にか起きていたようで、拗ねた目を此方に向けた。その目線に向き合ううち、自分は独り者であったことを、いやそれ以前に自分はまだ学生であることをふと思い出した。学生であったのは随分昔だったはずなのに、急に身の内にすうすうとした風が吹き込み、しぜんと背筋が伸び、ああ、やはりたまには思い切って買い物をするのも良いものだ、周囲には反対されるだろうがひっきょう、己の進む道は自らが切り拓いてゆくものだと妙に大仰な心持ちになった。そう思ったとたんにくしゃみが飛び出し、身の内に吹き込んでいた風がふいに止んだ。風船のように膨らんだ心は急速に萎み、電車の中はまたしんとなる。

 がらがらに空いた電車に揺られながら、私は膝に裂き烏賊を載せてぼんやりと座っていた。袋はいつの間にか姿を消しており、裂き烏賊は幼子のごとく、私に凭れ掛かるようにして、ぐっすりと眠ってしまった。電車の規則正しい振動に併せ、私たちは揺れ、膝上と腹にかかる重みが少しずつ、少しずつ増していく。

 どうせ束の間のつき合いなのだが、せめて仲よくしような、と私はかなり重量の増した裂き烏賊のまるい頭に顔を寄せ、光輪を纏った淡いベエジユ色の髪の毛を静かに撫で続けた。

 

 

 

 

 了