クロが前脚で叩くのは愛

約16,700文字

2015年11月頃初公開 

今から29年前、1989年6月にノートに殴り書きした短編を、少し長くしたり直したりしたものです。当時のメモがあったので正直に転記。言いたい放題。近頃の若者、ってモロ、じぶんのことじゃん、と後になって思ったり。伏字は具体的名称。下敷きにした本の題名は控えていなかった。残念。2018年現在では、もう少しこのお話の主人公について寄り添えるものがあるのかも、と感じております。
『ドイツのある人が、犬と『会話』するためにモールス信号を用いた、という本があった。ノン・フィクション。抽象的なこと、例えば死などについても語りあう事ができたんだって。犬のモデルは○○。この男はなんだか、やなタイプだ。近頃の『コミュニケーションが苦手な若者』ていうのを代表している。犬が病気になったのに気づかんのは、自分たちの間のコミュニケーションがもっぱら『ことば』によって行われる、と彼が錯覚したからに他ならん。土手のモデルは××川沿い』

あらすじ――八年前に自宅前で拾った、クロと名付けたその犬はある日、僕の問いかけに対して前脚で床を叩いた。

それは肯定の答えだった。それから僕は、クロにことばを教え始めた。

失業中の僕と、パートナーのクロとの愛のお話。

キーワード #犬 #桜 #モールス信号

 

 

 クロが話すのを初めて知ったのは、半年前の秋のことだった。

 僕は続く冬の間中、雪深いこの土地の温かい家の中で、彼にことばを教えて過ごしていた。

 

 

 僕は夏の終わりに会社を辞めて、失業中だった。

 同期の奴らがそろそろ主任やらマネージャーやらに昇進し出したり、社内で芽が出ないまでも結婚して家庭を築いたりしている中、焦りを感じる年ごろだったかもしれない。

 

 しかしその頃、なぜか世間は自分からかけ離れたところにあった。

 

 自分から離れていったのではなく、世界が僕を見限ってものすごい速さで去っていく、そんな感じだった。絶望感もなく、宇宙船の丸窓からどんどんと小さくなってゆく地球を眺めているような。

 

 毎日深夜までデスクに向かっていた頃から空虚な思いに囚われていたのか、辞めた後に目標を見失って空しく感じていたのかは定かではない。

 説明しようがない。知り合いから遠まわしに相談機関を勧められたりもしたが、ふんぎりはつかなかった。

 だからと言って何か新しいことを始めようと思ったわけでもない。

 ただなんとなく、何もかもがどうでもよくなっていただけだった。

 

 しかし、クロの一件は、僕にとって確実に『どうでもよいこと』ではなかった。

 空虚でありながらも妙に充実した時、それはあの曲を聴いていた時から始まった。

 

 ****

 

 いつものように、僕は自分の部屋で音楽に浸っていた。

 

 十月になったばかりで、記念にと思って聴いていたのは、ウィンストンの『AUTUMN』。

 かなり以前の初任給で買ったお気に入りのカウチに長々と寝そべり、あまり冷えてないビールをすすりながら、僕は『理系のための転職特集』という記事の載った少し古い雑誌をぱらぱらとめくっていた。

 古びた転職情報には、すでに無くなっている会社もいくつかある。それに指が行き当たるたびに、小声で「安らかに」とつぶやいてまた、指をすべらせていった。

 

 カウチの脇にはクロが、これまた長々と寝ている。

 

 クロは、シェパードの表情とコリー犬の毛なみ、セントバーナードの躯体を兼ね備えた、まあ、ミックスというと聞こえはいいが、ただの雑種だった。

 

 最初に見つけた時には、単なるゴミだと思っていた。

 

 

 

 深夜に帰宅して我が家へ入ろうとした時、すぐ近くのゴミ捨て場に大きな黒い塊が寄せられているのに気づいた。

 誰かゴミの日を間違えたな、とちらっと思って、疲れていたのでそのまま家に入ろうとした時、塊がかすかに動いた気がして僕はそっと近づいてみた。

 

 季節には少し早い粉雪が舞い落ちる中、落ちていたのは大きな犬だった。

 

 泥だらけで長めの毛がもつれて固まり、小刻みに震えていた。

 震えがなかったら死んでいたと思ったことだろう。

 僕は走って家に入り、押入れにあった古い毛布を引きずり出してきて、また犬の元に戻った。

 アスファルトの地面からはがすように手を差し入れ、かぶせた毛布ごと、胸元に抱き上げた。思ったより軽い。そのまま僕は、抱えた犬をできるだけ揺らさないように家に戻った。

 

 何を拾ってきたの、と問う家族は既にいなかった。僕を育ててくれたたった一人の父も数年前に病気で亡くなり、遺されたのは借地の上に経つ築二十年の平屋のみ。

 それでも、行き倒れた犬を介抱するには十分な広さだった。

 八年ほど前、僕がまだ新入社員だった頃のことだ。

 

 翌日初めて、僕は仮病を使って会社を休んだ。

 

 まだ仔犬の部類だよ、まだまだ大きくなる。

 昔からなじみの獣医さんがそう言って笑った。

 骨折のような大きな怪我もないし、病気の様子もない。遠くから来たんだろう、衰弱しているが、ちゃんと手当すれば元気になるだろう。

 

 獣医さんが語る度に、犬は眠ったように目を閉じて横たわりながらも、ふさふさしたしっぽだけは軽く、床を打っていた。

 

 言葉に合わせているようだね、と僕は笑って、何となく

「名前はクロにしようかな」

 と言ってみた。その時も、しっぽで軽く床を叩いた。

 

 名前を気に入ってくれたんだろう、と僕は彼の頭をなで続けた。

 

 ****

 

 ピアノ曲を聴きながら古い転職情報誌を見ていたその日も、クロを傍に侍らせて、というか勝手にクロが脇にくっついた状態でカウチに寝転がり、漠然と、このままではいけないのだろうか、どうしたらいいのかと考えていたのだと思う。

 

 働くことが大切だというのは重々承知している、しかし、何をしたらいいのか?

 何を、したいのか。

 正直、何もしたくなかった。

 

 雑誌から離した右手が、クロの頭に触れた。

 クロが僕を見上げた。顔をじっと見ている。

「クロ」意味もなく、僕は名を呼んだ。

 クロは僕の手を優しく舐めた。毛足の長い美しいしっぽが緩やかに床をはたいている。

 

 ピアノは『WOODS』の冒頭にさしかかった。

 細かく、揺らめき、旋律は僕らの上に降りかかる。

 

「クロ、この曲好きか?」

 クロは前脚で床をたたいた。軽く音も立てずに、僕をじっと見つめたまま。

「そうか、お前も好きか」

 クロは、また前脚で床を叩いた。

 叩き方が前のとまるっきり同じだった。

 

 あることに思い当った。この叩き方。

 ゆっくりだから始めは気づかなかったが、聞き覚えがある。

 

 ためしに僕は、もう一つ質問した。

「クロ、今叩いているの、何だか分かってるのか?」

 いったん首をかしげるようにしたクロは、それでもまた同じように前脚で床を打った。

 

 ―・― ― 

 

 僕はじっとクロを見つめた。

 それからビール缶の中を覗いてみた。まだ半分も減っていない。頬に触れてみたが、酔っぱらったようでもない。

 

 本当に、クロは分かってやっているのだろうか?

 これは……、モールス符号、英文だとしたら「Y」のようだ。

 

「それって……Yes、ってこと?」

 クロは僕の目を見つめたまま、前脚で何度も「―・― ―」と床を打ち続けた。

「Yes、なんだね?」

 クロは床を叩きながらちぎれんばかりにしっぽを振っていた。

 

 

 なぜクロがモールス信号を知っていたのかは、ぜんぜん分からなかった。ゴミ捨て場で見つけた時にはすでに成犬に近かったのはじゅうぶん承知していたが、彼が生まれてからどんな環境で過ごしていたかなんて、想像したこともなかった。

 ただ最初から、穏やかで、懐っこくて、人間に対して嫌な思いをしたことなんてなかったんだな、と思ったくらいだ。巨大なボロ雑巾のような姿であんなところに転がっていたのにも、なぜか不幸な境遇を思い浮かべることはできなかった。

 最後までどんないきさつがあったのかは分からなかったし、別に知らなくてよかったと今でも思っている。

 

 ひとつはっきりしたこと……僕のビール消費量はそれからめっきり減った。

 

 ****

 

 モールス信号というものは今では一部の無線でしか使用されていない。

 それでも僕にとっては、少しばかり思い入れの深いものでもあった。

 以前、亡くなった父が水産高校の時代に習ったと言って、わずかな知識を僕に伝授してくれていたのだ。

 アルファベットとカナとの符号については、風呂の中でよくクイズ形式で出してもらっていたので、どうにか思い出すことができた。

 

 でもそれだけではとうてい『会話』に持って行くことはできそうもない。

 

 僕は本屋で何冊かモールス信号やボディ・ランゲージに関する本を買いあさった。

 買ったものをカウチの脇、サイドテーブルに積み上げ、片っ端から読み飛ばす。

 そしてまた別の本を買っては積み上げ、端からめくっていく。

 

 殺風景な僕の部屋は、さながら図書館の片隅、整理するのが面倒になってしまった館員のための隠し部屋のようになっていった。そんな図書館員がいたら、の話だけれども。

 

 はじめてクロと『会話』した時にクロが語った『ことば』のはこの二つ。

『YES』を表す『Y』の『―・― ―』。

 そしてその後すぐ判った『NO』を表すらしい『N』の『―・』。

 

 僕の質問、しかもYESかNOで答えることができる簡単な質問については、クロはちゃんと前脚で答えてくれた。

 しかし、クロからそれ以上の語りかけはない。他には判っていないようだった。

 クロはYとNの欧文符号と意味とをどこかで習っていたのだろうと推察して、僕は、電信に用いる『送信要求』『送信開始』なども思いつく限り叩いてみせたのだが、クロはそういったものは全く知らないか気にしていないようだった。

 有名な『SOS』さえも全然悲愴感のないくつろいだ表情で聞き流していた。

 

 あまりにもたくさんの知識を急激に詰め込み過ぎた僕は、さんざん迷ったあげくに結局は単純な選択をした。

 アマチュア無線の免許を取って海の向こうに友人を作るなんて夢はなかったし、白い漁船に乗って遠洋漁業に行く計画もとりあえず持ち合せていなかったので、最初から、あまり複雑なやりとりは避け、僕とクロだけに通用する方法を編み出していこう、と決めたのだ。

 

 そうと決めたら急に気が楽になった。

 

 ****

 

 僕は膝の上から分厚いテキストを下ろし、カウチの上で大きく伸びをした。

 伸ばした腕が、柔毛の巻いた垂れ耳に触れる。ふと覗くと、カウチの脇では、クロが僕の果てしもない読書が終わるのを上目づかいになって辛抱強く待っているのが見えた。

「ごめんごめん、ご飯がまだだった」

 あわてて立ちあがると、僕の腹もぐう、と大きく鳴った。

 クロが、それ見たことかと言いたげに歯をむき出した。笑っているのだろうか。

「ごはん、食べるか?」

 クロはさも当然といった風に、前脚で

 

 ― ・― ―

 

 と叩いた。

 その表情がおかしくて、僕は声に出して笑う。

 

 久しぶりに笑い声が出せた気がした。また腹が鳴って、今度はクロがずらりと並んだ歯を見せた。

 

 ****

 

 その頃覚書に使ったノートには、いくつかのことばが残っている。

 最初のページには、例えばこんなところが書かれていた。

 

 一番最初にボールの『B』―・・・

 ごはん は『MEAL』の『M』― ―

 水 の『W』・― ―

 あそぶ は『PLAY』の『P』・― ―・

 寝る は『SLEEP』の『S』・・・

 なか、うち は『IN』そのままで・・―・

 そと は『OUT』の『O』― ― ―

 

 クロは確実に、いろんな『ことば』を覚えていった。浜辺の砂が次々と寄せては返す波を吸いこんでいくように。

 

 

 ****

 

 ―・・・

 ―・・・

 ―・・・

 

 朝っぱらから、クロに起こされた。

 毛むくじゃらの前脚が僕の肩口に何度も当たっている。

 久々の上天気で、彼はごきげんだ。

 

「何だよ、待てよ。ちょっと待て、何?」

 

―― ボール、あそぶ、そと

 

 クロは続けてそう叩いた。

 この頃には、ことばをつなげて表現するのもかなり巧くなっていた。

 

「待ってくれよ……」眠くてたまらない。

 クロの鼻先を軽く叩いて、返事をする。こんなふうに。

 

「クロは……」そう言って「あそぶ」と、

「僕は……」そう言って「ねる」と叩く。

 

 クロは明らかにとまどっていた。

 

「そうか」

 僕は気がついて、どうにか起き上がる。

「名前が、まだだったな」

 

 クロの頭を両腕で抱きかかえ、ごしごしとタオルで頭を拭く時のように

「クローーーーーー!」

 と揺さぶった。いつもの挨拶だ。

 それから

「ク、ロ、」

 と一語ずつ区切りながら

 

 KURO ―・―   ・・―  ・―・ ― ― ―

 

 と打ってみた。

 少し長いだろうか。何度か繰り返しているうちに、クロが真似をし始めた。

 打鍵の仕方が、犬だから仕方ないのだろうが、長音の時は床をひっかくように、短音の時は叩くようにしている。

 そのせいもあってか、三文字目くらいからこんがらがってしまったようだ。

 

 KU ―・―   ・・― 

 

 までは確実にできたので、「そう」ぼくは励ますようにクロの頭をなでた。

「それが、クロ、おまえだ。クロ、クロだよ」

 

 次に僕の名前、「開(かい)」。

 こちらもKから始まっている。

 

 KAI ―・― ・― ・・

 

 これは三文字分打ってみた。

 自分の胸をさして、「カイ」とゆっくり告げる。

「カイ、ぼくのことだ、カイ。カイ」

 

 頭の文字が一緒というのがたいそう気に入ったらしい、クロはすんなりと三文字覚えてくれた。

 

 クロがしばらく床を叩いていた。これは? と僕が自分の胸を指すと

 

―― KAI

 

 と打ち、「おまえは?」と訊ねて片手を鼻面に乗せると、

 

―― KU

 

 と打つ。

 

 完璧だ。

 

 そこで僕はえへん、と咳払いしてこう言った。もちろん床を叩きながら。

 

 

「クロ、そと、あそぶ

 カイ、うち、ねる」

 

「わかった?」

 念押しした僕をじっと見つめてから――かなりじっと見つめてから、クロはしばらく考え込むように床に目を落とし、頭を下げたまま開いていた掃き出しの窓からとぼとぼと庭に出て行った。

 

 

 昼近くまで眠ってしまっただろうか。僕はようやくすっきりと目を覚ました。

 パイプベッドから降りて大きく伸びをする。

 

 記憶がつながる。クロをひとりきりで庭に出したのだった。お気に入りのボールはベッドの足もとに転がったままだった。

 ボールを掴むと、開け放した掃き出しから、ウッドデッキのサンダルをひっかけて庭に出た。

 

 庭にはクロの姿がなかった。

 生垣の穴をくぐり抜けて、隣接した公園に出かけたらしい。

 公園といっても草刈りもめったにこない単なる空き地だった。

 草に半分隠れていた石段を三段降りて、ようやく公園の向こう端、大きなセンダンの木の根元にクロを見つけた。

 

 木陰の風通しのよい場所に寝そべって、尻尾の先だけ時おりゆらり、と動かしている。久しぶりの乾いた空気を楽しんでいるようだ。

 大声で呼ぶと、いっしゅんで耳が持ち上がった。

「クロ、ボールを持ってきたよ」

 クロは首を上げ、立ちあがり、流れるような動作でこちらに駆け寄って来た。

 すでにしっぽをちぎれんばかりに振っている。

「ほんと、オマエはボール大好きなんだな」

 僕は、クロがいつもやっているみたいに、へえへえと舌を出し、手を地面につけるように体を低くしてから軽やかにはね回って、ボールを追いかける真似をしてみせた。

 

 今日こそ、うまくいく気がしていた。

 

 僕はこのところ、「好き」という言葉を覚えさせようとやっきになっていた。

 

「好き」は今まで使っていたローマ字表記を使うならば本来は

 

―― SUKI  ・・・ ・・― ―・― ・・

 

 なのだがこれも長いので、好きは「LOVE」の頭をとって

「L」とすることに決めていた。

 

 僕はボールをこれ見よがしにクロの鼻先でひらひらさせた。

 クロはすぐに舌をひっこめ、ボールを取ろうとすばやく首をのばす、右、左。

 隙をみて僕はボールを思いざま、空き地のまん中へ向かって放ってやった。

 

 小さな弧を描き、白いボールは空を舞う。

 

 まだ地面につかないうちにクロは走り出した。地面に何度目かのバウンドをくり返しているのに追いついて、抑え込むようにあごでボールを止め、しっかとくわえて、また猛ダッシュで僕のところまで戻ってきた。

 僕はつい笑い出しながらも、クロにこう言った、もちろん信号も入れて。

 

「クロはボールが好きだなあ」

―― KU L B  クロ すき ボール

 ―・―  ・・―  ・―・・ ―・・・

 

 舌を長くと出したまま、クロは僕の叩くモールス信号をちょっとの間おとなしく見ていた。 

 

―― クロ すき ボール

―― クロ すき あそぶ

―― クロ すき……

 

 もう一度ボールが、と付け加えようとして、僕はクロのあまりの勢いについ後ろにひっくり返った。

 あろうことか、でかい図体で僕の上にのしかかってきたのだ。

 そして、大はしゃぎで僕の胸に前脚をぶつけてきた。

 

 ・―・・ ―・― ・― ・・

 

 最初は何のことか分からず、僕はきょとんとしていた。薄く晴れた空を黒い毛むくじゃらの頭がせわしなく遮る。

 前脚は乱暴とも言える躍動感で、僕の胸をひっかき、叩き、を繰り返した。

 乱れながらもだんだんと明確になるそのリズムをどうにか、こう読みとった。

 

―― L  KAI

―― L  KAI 

 

 彼は完全に言葉の意味を理解していた。

 

 頭のどこかで、やったぞ! という叫びがファンファーレと共に鳴り響いている。しかし表面では、こんな姿を通りかかった近所の人にでも見られたら何と言われるだろうか、としきりに照れてもいた。

 

 何と言っても僕はご立派な勤めを自らフイにしたシツギョーシャってヤツだったから。

 

 でもクロは、そんなこと全然構っちゃいなかった。

 

 ****

 

 この頃からノートには新しいことばが急激に増えていった。

 

―― 好き、きらい、わからない、ごめん、ありがとう、少し、いっぱい……

 

 ある時、疑問形を教えた。

 

 話しことばならば、クロにかなりの内容を理解させることが可能だった。僕が訊いている時には、それは質問なのだということが、最初の段階から理解できていたようだ。

 しかしクロの側から、質問をさせるというのは意外と難しかった。

 特に、五W一Hに関するものをどうにかできないか、僕は頭を悩ませていた。

 

「クロは、わからない クロは、知りたい」

 という言い方はできていたので、もう少しという感触はあった。

 

 ようやく、こんな資料を探し当てた。

 とある博士が言語の不明な異国の集落で、地面にでたらめな線を描きなぐり、子どもたちから「何?」という疑問形を導き出したというのだ。これを、少し形を変えてクロに試すことにした。

 

 僕はある日、宅配便で届いた小包をクロの前に差し出してみた。中は密封してあるだろうから、匂いは漏れていないはずだ。

 クロのために、おやつの詰め合わせセットを通販で買っていたのだ。

 

 鼻先に差し出すと、好奇心旺盛なクロはもちろん、すぐに反応した。

 そしてなんと言うのか、迷ったようだがとにかくことばをいくつか叩き出した。

 

―― カイ、 

―― 箱、カイは開ける

―― クロ、わからない クロ、しりたい

 

「クロ」

 ぼくは優しく呼びかける。

「『なあに?』 って言うんだ、そんな時は」

 

 そして僕は

 

 ?  ・・― ―・・ 

 

 と、叩いてみせた。

「なあに?」

 と、問いかけながら、何度も、何度も。

 

 クロは、ぱっと顔を上げ、目を大きく見開いた。

「?」を認識した瞬間、瞳の中に大きな「!」マークが浮かんだようだ。

 

 それから何度も、クロは?マークを打ち出した。

 

―― ???? 

―― ? カイ、開ける 

―― ? クロ、開けたい

 

「これはね、」

 じゃーん! と開けた箱の中身に気づいた時のクロは、もう、何というか、ただのうれしさ最大級の犬そのもので、ことばとかそういうのはやっぱりどうでもいいのかも、と思えるくらいだった。

 つまり僕は、しつこいくらいに舐めまわされているただの飼い主に戻っていた。

 

 ****

 

 クロが器用なことを覚えた。

 

 形容詞や副詞、時には動詞まで、繰り返し叩くことで物事の有り様を強調するようになったのだ。

 

 クロのしっぽをうっかりと踏んでしまった時のことだ。

 ぎゃん、とひと声喚いて飛び上がったクロは、僕にこう抗議した。

 

―― いたい、いたい、

―― クロ、いたい、いたい、いたい

 

 クロがあまりにも真剣に何度もそう叩くので、僕は吹き出したくなるのをこらえ、聞いてみた。

「ごめん、クロ。許してくれ」

 

―― N  いや

 

「え? ノー、って言ったの?」

 

―― N

 

 クロは断固としてこう言い張った。

 

―― ごめん、ではだめ。

 

「じゃあ何て?」

 

―― カイは 言う。ごめん、ごめん、ごめん

 

 本当に吹き出してしまった。

 クロは完全に怒ってしまったようだ。経験として、まじめな話を聞きながら笑っているヤツは、まともに聞いてなぞいないということを知っているのだろう。

 なんとか真顔に戻ってから、ちゃんと僕は謝った。

 

「クロ、ごめん。ごめん。ごめん」

 

 ついでに毛をもみくしゃにしてやって、床に一緒に転がった。

 それでかなり機嫌は直ったらしく、僕の顔を舐めまわそうとしきりに首をのばしてきて、僕はそれをけんめいにブロックした。クロが声に出して笑うのならば、ずっとくすくす笑っていただろうし、僕にしっぽがあったのならば、クロ同様、千切れんばかりに振り続けていただろう。

 

 なんとなく、幼い頃父とやったプロレスごっこを思い出していた。

 

 ****

 

 ストーブを前にして、クロに聞いてみたことがある。

 

「クロ、クロは夢をみる?」

 

―― ?  

 

 「YUME 、ってね」

 ―・― ―  ・・―   ― ―  ・

 

―― ? しらない ユメ、何?

 

「夢というのは、うーん、そうだね……クロが眠る時、本当には食べていないのに、食べているような気がしたり、本当には走っていないのに、寝ながら走っているところが見えたり」

 

―― ?

 

「つまり……夢は、眠ってから、何かしているような、他の場所に行ってしまったような気がする、そんな感じなんだ」

 

―― ?

 

「分かる?」

 

―― カイ、わかる。(かもしれないけど)クロ、わからない

 

 すがるような目でこちらを見ながら、少しずつ前ににじり寄ってくるクロの頭を、僕は優しく叩く。

 

「あとで、きっと分かるよ、いつかきっと」 

 

 クロがふい、と目をそらしたので

「外に行きたいの?」

 と、僕は聞いてみた。

 クロに分からないという思いをさせたまま、何となく負い目を感じていたのかも知れない。いつもならば外に行こう行こう、と僕を誘うクロが、ふとさびしげに見えたのだろうか。少しくらい元気がなさそうな時でも、僕が誘うとすぐに舌を出して目を輝かせる、そんな彼が座ったままの姿勢を変えず、また僕に向き直る。

 

―― N 

 

「え? 外で遊びたくない? ボールで」

 ボールをベッド脇から取ろうとした時、クロが静かに床を打った。

 

―― クロは外、行かない つめたい水

 

 窓の外をみやると、初雪のさいしょの一片が目に入った。

 黒々とした針葉樹を背景に、ただひとつ、揺らぎながら落ちてゆく。

 少し後からまた一片、そして続けてもう一片。

 

「雪だ」

 

 クロを拾ったあの晩を思い起こす。粉雪の中、震えていた体を思い出す。

 

―― つめたい水

 

「うん、雪、と言うんだ」

 ワイ、ユー、ケー……と続けてことばに出しながら床を打っている僕を、クロはあまり気乗りのしないように、横目で眺めていた。

 

 

 結局、雪が降っている間は、いくら誘ってもクロは外に出ようとしなかった。

 

 ****

 

 ひんやりとした外気の中にも、待ち焦がれた春の兆しがわずかに感じられるようになった頃には、クロとの会話ももう少し進歩していた。

 

 まず、○○だから××、というつなげ方を覚えた。

 それから、過去と現在との使い分けまでも。

 他にも、ローマ字であいうえおを間違えずに打てるようになった。五十音表を作ってやったらとても喜んで、時々「何? クロ、たたく」の前振りの後にクイズを出すまでになった。長い夜も、ひどい雪の日も、極上の飲み物を少しずつ分けあうように、僕たちは会話を愉しみながら過ごした。

 

 ****

 

 その頃、僕はずいぶんと前につき合っていた女性とぐうぜん、出会った。

 クロを少し遠くまで散歩させている最中だった。彼女は、はっ、と頭を持ち上げて目を大きく見開いて、こちらに駆け寄ってきた。

 

 ひさしぶり、はずむようなアルトの声に僕はああ、とだけ応え胸にそっと手を当てた。

 ちゃんと笑顔を返せていただろうか。

 

 僕の心配をよそに、彼女は楽しげにクロの前にかがんで、首を抱いた。

「まっくろクロちゃんも、わあ、相変わらず真っ黒だね、元気してた?」

 クロは彼女の声に小躍りするように前に飛び出し、その手を舐めた。しっぽは千切れたら空に舞い上がりそうなくらい、ぐるぐる回っている。

「やだ、クロちゃん、お手だよ、お手」 

 

 あまりのクロのはしゃぎように、僕はそっとリードを手前に引き戻してみた。

 クロはわずかに下がったものの、彼女の手の匂いをかぎ、何度も顔をこすりつけている。

「クロちゃん、覚えていてくれたんだね」

 

 その時、彼女の左手の薬指に、シルバーのリングがみえた。何の飾りけもない、ごく控えめな印、それでも僕は思わず目をそらし、それからごく普通にクロの鼻先に目を戻した。

 

 ことばが途切れるのが怖くて、僕はクロの首輪のあたりを見ながら、元気だった? と訊ねた。彼女はクロの目を見たまま、まあまあね、と答える。それから、僕の顔を見ずに言った。

 

「カイ、仕事辞めたんだって?」

 

 ノザキくんに聞いたよ、こないだばったり町で会ってね……

 

 考えられなくもないことだ。彼女は転職して五年以上経っていたのだが、もとはと言えば同じ職場だったのだから。

 

 彼女が短大を出て入社三年目のところに、大卒で新入社員の僕が入ってきた。

 敬語で話す僕に、瀬川くんワタシと同い年なんでしょ? やめてよそれ、と真面目な顔してそう言った時は、大きな目が三角に尖って見えて怖い人だなと思っていた。

 捨て犬を拾ったんです、でも世話の仕方が分からなくて、と話した時も敬語をとがめられるかと思ったとたん、彼女が急に目を輝かせて立ちあがり、ワタシ、犬、だっいすきなのよ! 見に行っていい? と喰いついてきたのがとても意外で、新鮮だった。

 

 クロちゃん、と呼んで彼女がクロとすっかり仲よしになった頃には、僕らはお互いに名前で呼び合うようになっていた。

 

 彼女はクロの頭をなでながら続ける。

「部長に止められたんでしょ? もったいない、ってみんな言っていたみたいだし」

「そうなんだ」

「私はそうは思わなかったけど、ねえクロちゃん」

 相変わらず、僕を見ずに彼女はクロに話しかけている。クロの頭をなでる手がどこかぼんやりと前後に往復している。

 

 ようやく気がついた。彼女も、途方にくれているのだ。

 何を話せばいいのだろうか、と。

 余計な事を言ってしまえば、別れの時のように、また、お互いのことばでお互いに切りつけ合ってしまうだろう。

 

 彼女はかつて僕を断罪した。

 アナタはあまりにものめり込み過ぎる、周りが見えていないの、それが怖い。自分が正しいと思えば、他人がどう言おうが思おうが突き進んでしまう、と。

 本当に本当のところでは、やっぱりアナタが正しいのかもしれない。プロトタイプ発表の時も独断で設計変更したり、無能な係長がただ無能だという理由だけで糾弾したり、でも

 

 アナタには他の人たちがどう見えているの? 自分の周囲に拡がるただの背景とでも?

 都合のよい時に適材適所で利用できる、それなりに役に立つ資源なの?

 自身の生活を正しく営むために、取ったり捨てたりできるパズルピースとでも?

 

 カイ、ワタシはピースの一片じゃあない。いくら完璧な絵になろうとも、アナタのパズルには、はまらないしその役を引き受けようなんて、全然思ってないから。

 

 当時投げつけた、投げつけられたように言ってやろうか?

「僕だと気づいた時に、またパズルに組み込まれるかも知れないって、どうして顔をそむけて逃げなかったんだ?」

 その衝動は突如激しく湧き上がる。

 

 クロがふり向いて、僕を仰ぎ見た。妙に悟ったような目に、僕は「分かってるよ」と口の中で小さくつぶやいて、いかにも耳の後ろが痒かったのに気づいてやってふりをして、クロの頭を掻いてやる。激しい衝動は急速に引いていった。

 

 お互いの近況を何とはなしに交換しながら、僕は、彼女の指輪にさりげなく目をくれて言った。

「それ」

 彼女は、右手でそっと見えている指輪を覆った。

「結婚したんだね」

 僕の口調に棘がないのを察したのだろうか、指輪をつけ根に押さえ直し、手を外した。

 

「去年。春にはね」そして顔を上げて、やっとまっすぐに僕を見た。

「赤ちゃんが生まれるんだ」

 

「すごいや、おめでとう」

 自然に笑顔が出た。「女の子? 男の子?」

 

「生まれるまで聞かないようにしよう、って二人で相談したの」

 その一言に、今の暮らしが十分に満たされているのを感じ、僕は心からもう一度おめでとう、身体に気をつけてね、と言った。

 

 何の構えもなしに彼女は、ありがとう、と答えてほんのりと目もとを赤らめた。少し下がった目じりの形に僕ははっとする。そうだ僕はこの笑顔を最初見た時に彼女のことがすごく好きになって、犬の話をするときに彼女はよくこうして笑ってくれたけど、今のこの笑顔は同じようでいてもう全然違う、ずいぶん大人になってしまったんだ、と脈絡もなく思いを流しながら、それでも口では当たり障りのないことばを発していた。

 

 

 彼女が見えなくなってから、クロが地面を打った。

 それまで、彼女の前ではいっさいモールス信号を使おうとしなかったのに。

 

―― KAI L REI カイは、レイ、好き

 

 彼女の名前は怜奈といった。僕がレイ、と呼んでいたのを覚えていたのだろう。

 

「カイは、レイが好きだった。確かにね」

 

―― L DATA ?  好き だった?

 

「だった」よくクロはTを重ね忘れる。「D、A、T、T、A」

 

―― PAST ?  過去形?

 

 そうだよと答える前に、クロが叩く。

 

―― カイは、レイ、好き? きらい?

 

 今はどうなんだ、とクロの前脚は問い詰める。少し考えてから、僕はいいや、と答えた。

 

「今は、好きではない。でも、嫌いでもないんだ」

 

―― クロ、分からない

 

 クロには、好きではないなのに、嫌いではないというのがよく理解できないようだった。

 確かにそうだろう。彼はひたむきだ。好きなものは好きだと言い張れる。

 

 でも僕だって、実はよく分からなかった。

 

 彼女の消えた方向にぼんやりと目をやったまま、ほんとうに、僕のおめでとうはおめでとうでよかったんだろうか、と考えていた。シルバーの白い輝きがちかりと目を刺したような気がして、僕は何度か瞬きを繰り返す。好きだから、おめでとうと言えたんだろうな、他に余計なことを言わずに済んだのだ、そう思うことにした。

 

 そう、今でも、好きなんだ。

 

 

 何かの時に、僕はクロの過去について色々聞いてみようとしたことがあった。

 雪の晩に、ゴミ捨て場に倒れていた、もしくは捨てられていた前に、彼はどこから来たのだろうか? 前の飼い主は、どんな人だったのか?

 

 過去形が使えたはずなのに、クロはただ、しっぽをゆるやかに振って、

 

―― N PAST 過去はなし

―― L KAI  好き、カイ

 

 そう叩いただけだった。覚えていないのか、語りたくないのか、それ以上何も教えてはくれなかった。

 

 レイと束の間再会してから、僕はやっぱりどこかおかしかったのだと思う。

 お祝いを贈ろうか、と思い立ち、添える手紙を書きかけたこともある。相手は誰なのか教えてほしい、と書いてから質問を替えてみようと、苗字は何になったのか、と書き換えてまた消した。

 住んでいるところが分からないので、ノザキに聞いてみようかとも思い携帯電話を取り上げ、ふと我に返る。

 歪みそうになっている心の中に、クロの姿を探す。実際にすぐそばで寝ていることもあれば、庭に遊びに行っていて、影だけが窓辺にちらつく時もあった。

 でもそれだけで、僕は正気に戻ることができた。

 

 クロともっと話しあいたい。

 いつかじっくりと、語り合ってみよう……愛について。

 どうして愛は歪んでしまうのか、どうすれば愛はまっすぐに育つのか。

 僕の懺悔を聞いてほしい。そして、クロに教えてもらいたい、もっと、もっと。

 

 時間はたっぷりとあるのだから。

 

 その時僕はそう思って、書きかけの手紙を細かく破り捨てた。

 

 ****

 

 桜の開花予想が出た頃、クロの様子がおかしくなった。

 いつもの朝だったら、掃き出し窓を開けると僕より早く飛び出していって、あちこちの草や木の匂いを確かめたり土を蹴散らしたりするのに、その日に限って起き出そうとしなかった。

 

「クロ、散歩に行くぞ、起きろよ」

 クロは気だるげに頭を持ち上げた。近づくまで気づかなかった、鼻がかちかちに乾いている。眼やにもひどい。泣き明かしたようなその表情に、僕はついその場に座り込んだ。

「どこか痛いのか?」

 クロは少しだけしっぽを動かして、また頭を下ろし、前脚の間に載せた。

 

 信号は、無かった。

 

 彼に元気がない、ということよりも、彼が「話」をしようとしないことが、何故か心を騒がせる。

 

 僕はクロを抱きかかえて車に乗せると、近くの動物病院へと向かった。

 

 

 ****

 

 クロを後ろの座席に寝かせ、僕はゆっくりと土手を走らせていた。

 桜の幹がうっすらと赤みがかって見える。これから咲かせる花への期待が幹に現れるんだよ、と以前会社の上司から聞かされたことがある。その時は酔っ払いのたわ言だと心の中で笑っていたのだが、今ようやく、それも本当なのかも知れないな、と思えるようになった。

 

 医者が言った、残念ですが、もう治療の方法が見つかりません。

 

 なんならば、ここで『楽に』なることもできるのですが。

 クロちゃんはかなり、我慢していたんでしょうね、今もだいぶ辛いはずですよ。

 

 医者が薬品庫に入って行った時、僕はクロに聞いてみた。

「クロ、帰るか?」

 クロはひたすら、Yと叩いた。弱々しいサインだが、間違えようはない。

 

「クロが帰りたいと言うので、連れて帰ります」

 戻ってきた医者は、ちょっとけげんそうに眉をひそめたが、僕がクロを車に連れていくのを手伝ってくれた。 

 

「まだ夜にはかなり寒くなるらしいし、温かくしてやってくださいね」

 僕があまりにも思い詰めた表情をしていたのだろう、若い獣医師はわざわざそう声をかけてくれた。

「クロちゃんのことで何かできることがあったら、いつでも連絡してください」

「……ありがとうございます」

 

 クロを拾ったばかりの時にかかっていた獣医師はすでに引退していた。その人に相談できれば一番よかったのだろうが、手近なところでこの病院しか思い浮かばなかった。

 最期になるかもしれない、という時に適当なところを選んでしまったものだ、と診断の時にはかなり後悔していたが、こうしてわざわざ表までついて来てくれたのを見て、やはり彼も動物が好きで、この仕事を愛しているのだろうと思い、深く頭を下げて病院を後にした。

 

 それでも、少しだけ、彼を憎んでいたい気持ちはあった。他に憎しみをぶつける相手が思いつかなかったから。なぜそんなに簡単に『楽』にするなどと言えるんだ? オマエがクロの何を知っているというんだ?

 

 バックミラーに去って行く景色の中、白い長衣がずっと見送っているのを認め、僕は、口の中に最後まで残っていたバカヤロウのことばをくっと呑み込んで意識を前方に向けた。

 

 目の奥にじんと痛みが刺した。

 

 

 

 

 

 クロは薬が効いているのか半分うとうとしながら車に揺られている。

 

 眺めのいい土手の高台にさしかかった時、僕は車を道の脇に停めた。

「クロ」

 ちょうど眼が醒めたらしいクロのために、後ろのドアをいっぱいに開けてやった。

 柔らかい風が彼の毛先に絡まっては去って行く。

「クロ、もっと早く気づいてやれなくてごめん」

 クロは揃えた前脚の間に頭をもたせかけ、うっとりとした目のまま風を浴びている。まだ薬が抜けきっていないのだろう。

「僕はパートナー失格だな」

 クロは揃えた前脚の間に頭を乗せたまま、しっぽを軽く横に振っていた。

 

 ****

 

 新しいプロジェクトの誘いがあったのは、ちょうどこの頃だった。

 

「部長からぜひ、オマエに声かけて欲しいって言われてさ。オレも大歓迎だよ、まったくもってオマエにもぴったりな企画だと思ってさ、」

 電話の向こうの声は、張り切っていた。僕はこんな声の調子をしばらく忘れていた。以前は僕も、こんな口調で話していたのだろう。

 

「すまないけど、今は駄目だ」

「そうかならば、え、何? 今、ダメって言ったか」

「言ったよ」

「まったく、どうして」

「そんな気分じゃない」

「まあさ、カイ」急に相手はなだめるような口調になる。

「実はさ、キタヤマも候補に挙がったんだ」

「キタヤマ? あいつサンディエゴにいるんじゃないのか」

「帰ってきてるんだよ、まったく、でもよ、オマエから先に聞いてみようと思ったんだ」

「ご親切にどうも」

 

 キタヤマという男は、確かにできるヤツだ。その彼よりも、いったん退職した男を選んでくれたというのが、素直に嬉しい。

 

 しかし僕はためらわずにこう答えていた。

 

「悪いけどさ、今回の件はキタヤマにあたってくれ」

 

「えー?」信じられないよまったく。病気なんじゃね? 軽くそう言う彼に

「うん、病気なんだ」

 そう答えると、急にしどろもどろになって、入院したりしてんのか? そうか、重いのか? 早く治せよ、まったく、とにかく寝てた方がいいかもな、と何だかよく分からないセリフを並べて、早々に電話を切った。

 

 電話が切れてから、僕は嘘を言ってないぞ、と何度も自分に言い聞かせる。

 主語を抜かしただけだ。嘘は、言っていない。

 

 それでも後味の悪さが減ったわけではない。

 何でも素直に言えるクロが、正直うらやましかった。

 

 ****

 

 桜の花の見頃はなかなか長かった。

 それでもやがて、ひとひら、またひとひらと花は散って行った。

 

 

 

 クロは、ほとんど眠ったまま息を引き取った。

 

 

 

 最後の時間を過ごす中、僕たちはあまり『話』をしなかった。

 ことばにはならないところで、僕は心を読みとろうとクロの傍に付き添い、彼の頭をなで続けていた。

 

 

 

 そしてその日。空は明るく晴れ、淡い静けさに満ちていた。

 僕は南に面する掃き出し窓を思う存分開いて、クロをそっと、窓辺へと引き寄せた。

 薄い桜色の花びらが少し温かい風に乗って、部屋の中にも舞い落ちてくる。

 

 唐突に、クロが目を覚ました。前脚でひっかくように、しきりに合図を送ってくる。

「クロ、どうしたんだ」

 

―― ? 

 

 見えていないのだろうか、持ち上げた目はうつろだった。それでも、花びらが近くをかすめるたびに、鼻先をそちらに向けようとする。

 

「何? って? 花びらだよ、桜の花びら」

 

―― ユキのよう

 

「違うよ、オマエの嫌いな雪じゃない」

 

―― さむくないユキのよう

 

「そうだね、桜の花びらだから。いくら降っても寒くはない」

 

 クロは安心したように、また目をつぶった。

 

 しばらくしてから、今度は案外とはっきり、目をさました。まっすぐな視線がこちらを向く。

 

―― カイ

 

 僕を呼んでいる。

 

「何?」

 

―― クロ、走った、カイといっしよ

 

「そうだね、よく走ったよね」

 

―― N 

 

 否定の叩き方は強かった。

 

―― ちがう、今、クロはカイと走った

 

「え? 何だって? 違うよ、今クロは寝ていたじゃないか」

 

―― クロは、今、カイと走った あたたかい雪の中

 

 クロがいつものように、ごく当たり前のようにムキになって反論してくるので、僕は笑ってしまった。やはりいつものように。

 笑ってから、僕は気がついた。

 

「クロ、解ったよ。それ、夢だ」

 

―― YUME

 

「そう、今、クロは夢を見ていたんだ」

 

―― クロ、夢を みた

 

「楽しかったか?」

 

―― 楽しい、楽しい、楽しい

 

 

 その後、クロはこう叩いた。

 

・―・・  ―・―  ・― ・・ L KAI 

 

 少しもうろうとしていたのか、Kを忘れた。

 

・―・・  ・― ・・ L   AI

 

 速くなったり、遅くなったり、途切れたり。

 

 たまたま、LとKAIの「AI」は間を入れるかどうかの違いで、同じ打鍵だった。

 愛は、アイと同じだったんだね、急に溢れるような思いに胸がいっぱいになり、僕は泣き出さないように、彼の前脚を軽く叩く。

 クロの叩くのに合わせ、僕も愛を叩いた。

 

 ・― ・・

 ・― ・・

 

 クロはいつの間にか、また眠りについた。

 僕はクロがいい夢を見られますように、と彼の前脚を軽く、叩き続けた。

 

 

 春霞の空、どこからか、桜は絶えることなく舞い落ちては僕らの鼻先で踊った。

 静かな音楽のように。

 

 

 

 

 

  了