約19,000文字
2013年3月5日初公開
あらすじ――すれ違うニンゲン全てを撃ち殺す妄想とあまたの本の中に生きる『僕』は、図書館で偶然借りた本に載っていた『みちる』に恋をする。
『僕』は、まだ逢ったことのない彼女を探しに出かけ、『私』と出逢う。
『私』は言った。みちるは死んだ、と。
秘められた、人を癒し助けるちからを持ったみちるは
その死によって彼らを救うのか、それとも絶望へと導くのか。
ノープロットで書き始めましたが、苦労しました。後に、絵画美術のウンチクを交えた『出あうことのない二人、出逢う』という物語の元になったものです。◇◇女 ◆◆男との交互視点というところがそのまま、受け継がれました。
◇◇
みちるが死んだ。
その一行から始まる自由連想の小説。私小説になるのか。それとも普通のグダグダ?
このクソ忙しい時に何をやっているんだ私は、みたいな気もあるが仕方ないだろ、もう書くって決めたんだから、そういう投げやりさも確かに胸の中にモヤモヤしていて。
それよりも書きかけのものを完成させろよ、という気もあるが、
思いついたらどんどん書いておかないと、人生はいつまでも待っていてはくれない。
人生というこの不可思議なやつ、今まで本当に忍耐強く私を待っていてくれたのに、そろそろちゃんとそれに応えないといけない時がきてしまったという気持ちだな。
とにかく、みちるが死んだ。その事だけは確かだった。
これがSFとかファンタジーだったら、展開と共に生き返ってまた活躍するのかも知れないし、小説の技法によってはいくらでも回想や過去の掘り起こし等でまた私たちの前に「生き返って」くれるのかも知れないが、今はただ、これしか言えない。
みちるは死んだのだ。
◆◆
僕はみちるに恋をした。
あれは、昨年のこと。
雨のようやく降り止んだ7月の中旬。憂鬱な季節は終わろうとしていた。
あまりにも濡れ過ぎた外の景色、急に勢いを取り戻した太陽の光を少しでも覆い隠そうとするかのように、ビルからも道路からも白いもやが精霊のように立ち昇っている。
精霊はすぐに戦いに敗れ、流れる雲の隙間からのぞく青い空に還っていく。
世界が乾ききる前に、僕は図書館を出ていった。気持ちは焦っていた。早く家に帰って片っ端から読みたい。10冊か、12冊か、その時何を借りたのかはあまり覚えがない。小説がいくつもあって、図版みたいのもあって、ノンフィクションとかも数冊あったはずだ。
図書館では、棚と棚の間をさかりのついた猫のように歩きまわり、左上から右下にむけて斜めに目を走らせていく。そうして、ぱっと目に止まった本を誰にも取られないうちに人差し指ですいと引き出して手に収める。だから、選ぶ基準も何もあったものではない。しばらく陥る空しさの埋め合わせになるような、しっとりと手に収まるものならば何でもよかった。
いつも図書館に来てから、大きいエコバッグを持ってくるべきだった、と後悔するがその日もそうだった。限度いっぱいまでの本を借りて両手に積み上げ、バランスをとるように図書館前の広い階段を下りていった。
「あつっ」
どん、と後ろ向きの背広が僕にぶつかってきた。
僕は持っていた本を全て大きく放り出して、前に倒れかかった。
携帯で何か話しながら歩いていたらしいそのサラリーマンは、
「……んだよ」
その時ようやく前に向き直り低くつぶやいたが、電話に向かっては
「いいえ、だいじょうぶです。申し訳ありません、今ちょっと移動中でタクシーがぜんぜん、はい、そうですねあと10分もあれば」
やや高い声で愛想よく受け答えしながら、あっという間に視界から消えた。
落とした本が汚れていないか、慌てて拾い集める。
幸運にも階段からはすでに水が引いていたが、数冊は植え込みのほうに入っていた。
「何だよ、は、どっちだ。バカ。死ね」
人に会いたくない。人と触れ合いたくない。それが僕が本に埋没する理由だ。
だからこうして図書館に来るのもできるだけ最小限と限られている。
借りられるだけ借りて、返却期限ギリギリまで、ひどい時には1週間も過ぎた頃ようやく返しにくる。しかも、閉館時間を狙って、建物の外から返却できるブックポストの投函口に。
僕はどうにか最後の一冊を拾い上げた。植え込みの黒い土が角にわずかに食い込んでいる。爪で擦ってみたら何とか目立たなくなった。それでも僕が借り出した時よりは確かに汚れている。
さっきのサラリーマンの目が、つぶやきがまだ心に棘となって刺さっている。傷の深さで鼓動が速い。
よせばいいのに、またあの男が去っていった方に目をやった。
「ホント、死ねよ」
呪いは自分にも跳ね返る。吐き出したとたん身体の平衡がくずれ、一番上の一冊をまた落とした。
目の前の歩道で、本はまん中あたりで見開きとなって目に飛び込む。
その時、初めて僕はみちるに会った。そして、恋をした。
おそらく初めての、本当の恋。
◇◇
みちるが死んだのは、多分に私のせいではないかと思う。
何ごとにもとりかえしのつかない瞬間はあるものだ。
あの日。
いつものように彼女におはようを言って、窓を開けて空気を入れ替え、他愛ないことを話して聞かせながら共に過ごす朝を束の間味わう、そんな儀式めいた流れは突如、あの瞬間に終わりを告げた。
目の前の光景がどうしても理解できなかった。
みちるは、目を開いたまま仰向けに横たわっていた。
幸せそうな笑みを口の端に残したまま。
理解できなかった。
ヒトハイツカシヌモノデス。
いつの間にか教わっていた、それとも知らされていた事実。
ことばとしては何の疑念もなく、すんなりと飲み込めていたその一行。
それがこのような、長々とした白い肉のかたまりとなって、私の目の前に否応なく突きつけられているのは、全くもって尋常ではない。
おかしかった。あまりにも理不尽過ぎた。先ほどまで息をして、笑って、しゃべっていたその姿がただのモノにすり替わっているのだから。
しかし
私は告白せねばならない。実は、ほっとしていた、と。
ずっとずっと願っていたことだったから。
どうか、一刻も早く私の目の前から消えてください。つよくつよく願っていたのだから。
◆◆
僕は目立たない、ごく普通の人間だと思う。
しかし、心の中はグルグルと不平不満が渦巻き、他の人たちと自分はどこか違うのだと信じていた。ずっと幼い頃から。
ある時には自分は神に選ばれた特別な存在だという誇らしさで胸が一杯になり、またある時には俺は最低な存在で社会の爪弾き者だと自己嫌悪に陥る。目の前のショウウィンドウにちらと自らの姿が映ろうものならば、それを拳でたたき割りたくなるくらい、その落ち込みは酷い。
どちらかというと消極的で、ホームでは結局満員電車には乗れないタイプ。
そうして、発車した電車の後尾ランプをじっと見つめたまま、その電車に乗る全ての人間に呪いを吐く。
次にホームに上ってきた人びとは僕の目の前を通り過ぎるたびに、一人ひとり撃ち殺される。もちろん、心の中の銃で。
僕は通行人の身なりや表情、僕に対する目線のくれ方でそのニンゲンを一瞬のうちに識別し、そして、簡易裁判によって判決を下す。コイツは、死刑だ、コイツは許す、僕のサイドにいてもいい。コイツは即撃ち殺す。コイツ……今睨みやがった。コイツはあまりにも脳天気な笑い方、死刑。コイツらは楽しそうに腕を組んでいる、男は遺し、女を撃つ。
最初に乗れなかった電車を見送ってから次のを待つ間も、僕の顔色は多分、全然変わっていない。つぶやきも口から洩れていないだろう。
僕は毎朝バイト先の会社に向かうたびに、耳にしっかりとイヤホンをはめて何でもいいから曲を流しながら、罪もないあまたの人々を射殺しては気を紛らわしていた。
とある機器販売メーカーの技術部で、ごく普通のアルバイターとして日を送っていた。
少し愛想がなくて気がきかない、それでも言われたことはきちんとこなす、
ごく普通の23歳として。
これが普通と言わずして、何だというのだろう。
それなのに。
あの日、みちると会った瞬間から少しずつ、僕の軌道はくるい始めた。
◇◇
彼は突然訪ねてきたのだった。
「みちるに、逢わせてください」
すらりとした上背のある、やや線の細い肩に黒っぽいジャケットを羽織り、彼は、私の住処の入り口、開いているドアの前に立ってさりげない口調でそう切り出した。
挨拶もなく。
「みちる、ですか」
答えを探しながら、私は彼をじっと観察する。
口調の淡々としたのを補うかのような、強い目のひかり。
それでも私の顔だけは、決して見ようとはしない。しかし
逢えるまでは、帰らない。
その目はそう告げていた。
彼は突然訪ねてきたのだった。
「みちるに、逢わせてください」
すらりとした上背のある、やや線の細い肩に黒っぽいジャケットを羽織り、
彼は、私の住処の入り口、開いているドアの前に立ってさりげない口調でそう切り出した。
挨拶もなく。
「みちる、ですか」
答えを探しながら、私は彼をじっと観察する。
口調の淡々としたのを補うかのような、強い目のひかり。
それでも私の顔だけは、決して見ようとはしない。しかし
逢えるまでは、帰らない。
その目はそう告げていた。
◆◆
みちるが今どこにいるのか、ぼくはその日からずっと探し続けた。
出版社に電話をかけ、迷惑そうだが、ちょっとだけ親切な中年のオッサンからやや詳しい話を聴く事もできた。
声だけだったら、ぼくはどんなでも素直に、おぼつかなく、真摯になれた。
オッサンなんて騙すのは簡単。ああいうヒトたちというのは、忙しいと言っている奴ほど頼られたがっている。
相手を持ち上げながらわずかな卑屈さをのぞかせて、てらいのない真っ正直さを装いつつ小学生のように『お願い』をすれば、まあ、たいがいはそのお願いを叶えてくれる。
「お忙しいところ、本当にありがとうございました」
言っている途中で「はい、はい」という声と共に電話が切れた。
ぼくは口角に笑みとも言える引きつりを残したまま、受話器に向かい
「死ね」
軽く、言い捨てた。
出版社のどこかのデスクで、胸を押さえてつっぷしている脂ぎった中年男の断末魔がちらりと脳裏をよぎった。
みちるが住んでいただろう町の役場にも電話して、住んでいる所の手がかりがないかも尋ねてみた。
役所の人間は「個人情報ですから」と木で鼻をくくったような返答しかよこさなかったが、それでも地元の図書館に来ればもう少し情報があるかも知れない、とは教えてくれた。
ぼくはすぐにその街に向かった。
◇◇
あの子がホームで人を撃ち殺していたのはすぐに分かった。
逢った瞬間、彼からつよく殺人者の香りがして私は玄関先に立ちすくんだ。
彼が怖かったのではない、自分が怖かったのだ。
招き寄せてしまった自分が。
その後の、彼との束の間の会話で、
「毎日、何人くらい殺しているの」
聞いた時にはぎょっとしたような目をこちらに向けたが、私がふざけているのではないと分かったら急に目を伏せ、
「駅のホームで、ですけど」
小さな声で言った。私が
「私も、通勤の時にはよくやった。銃を使って」
そう言って人差し指を上げる。
その指先に視線が吸い寄せられたかのように彼の顔が上がった。
それからまた目をあげてしっかりと私を見ながら
「50人までで、止めています。憎しみを暴走させたくないから」
はっきりと、そう答えた。
見れば判る。かつて同じ目をしていたから、私も。
同じことをしていた、駅のホームで。
そして、これだって見ていてすぐ気づくだろう。口から発する、耳には聞こえない小さな発射音。
ぱん、ぱん、ぱん。
合わせて見えない引き金をひく度に、すらりと長い右手の人差し指がぴくりと痙攣する。
耳にはめた白いイヤホン、そこから金属を高速で切り裂くような細かい音の飛沫が散っている、周りに毒を吐き散らすのだけが目的のように。
◆◆
地元の役場では、やはり窓口に立っても返答は同じだった。
日の高いうちに、ぼくは図書館に向かった。
朝から何も食べていなかったが、何も食べたいとは思わなかった。
取り憑かれたように、ぼくは図書館を目指す。途中で沢山のニンゲンに会っていたが、どれもこれも今日は全然、気にならなかった。一人の中年男性には、丁寧に道まで教えてやった。地元でもないのに。
彼はたまたまぼくが出てきた役場を探していた。運がいいですよ、とぼくは愛想よく彼に言って、彼も嬉しそうに、本当に、旅の方に親切にしていただくなんて、ありがとうございます、と丁寧に頭を下げて去っていった。
その後ろ姿を気持ちよく見送り、最後に銃で撃ち倒した。
憎かったわけではない。単なる習慣だっただけだ。
◇◇
自由連想のグダグダ、だったはずが私はすっかりこの中に閉じ込められてしまった。
自由な連想はやがて、不自由な文字と文字との間に絡め取られ、身動きが取れなくなる。
それを解放できるのは、読み手である後の人々のみ。文字列から、行間から、私を救いだしてほしい。
そのために殺したのだから、みちるを。
私はみちるのよき理解者だった。支持者だった。彼女を心から愛していた。
彼女だって、私を愛していたはずだ。
「いつだって、あなたの中の哀しみが見える」
彼女の目は、そう語っていた、私に向かう時にはいつでも。
そしてその目の中の輝きは、いつも私と同じように哀しみを湛えていたから。
◆◆
図書館はぼくの街のよりもずいぶんとこじんまりとして、低く陰気な山陰に寄りそうように建っていた。暗いレンガ色の外壁がさらに暗い雰囲気だった。蔵書も少なく、しかも湿っぽい空気に包まれていた。
それでも、地域の資料類は豊富だった。ぼくが以前借りた本と同じものもあった。
やはり、地元ではその当時かなり有名な話だったらしい。
ぼくは偶然、図書館で吸い寄せられるように借りた本で知っただけだったが、こんなに衝撃的なことがどうして全国的に大きな話題にならなかったのか、本当に不思議に思えた。
まあ、ぼくが借りた本は大手の出版社から出ていたのだから、例え囲み記事程度でも、みちるもいったんは世の中に浮かびあがってきていたということになる。
それでも、地元といえどもそれはすでに昔話の部類だった。
強烈な出来事になればなるほど、忘れられるのもあっという間なのか。
みちるは、ぼくとは正反対のひとだった。
ぼくは無差別に、無作為に、無計画に人をころし、
彼女は手あたりしだいの人びとを助けて歩いた。死にゆく人びとを。
元々は何が発端だったかはハッキリしない。
大きな転機、彼女のちからが白日のもとに晒されたのは、あの大きな鉄道事故の時だった。
◇◇
その前から、地域のコミュニティーではいくつか噂にはなっていたようだ。
私もあまり気にしたことはなかったし、それほどおおっぴらに言いふらされるような内容でもなかったので。
タドコロ・ミチルさんというヘルパーさんに、ぜひ最後にお話を聞いて頂きたい。
そういった高齢者や施設担当者がぽつりぽつりと、役場や社会福祉協議会に相談に訪れるようになっていた、という。
みちるはまだ若く、自分でも先行きの見えていない経験の浅いヘルパーだったし、自分がいったい相手に対して何をしているか、まるで意識したことはなかった。
ヘルパーとして当然のこと。
相手の話を聞き、共感し、こちらからは特に説教じみた話もせずに相手に寄り添い続け、癒しを与える。
ほとんどの人が、彼女に逢えてよかったと最期に言った。
ことばの紡げない者たちは、ただ涙の溜まった目で彼女に笑いかけ、あるいは皺だらけの手で彼女の指先をそっと握って、そのまま旅立っていたった。
なのに彼女は。
甲斐の無い仕事だと、逆に感じていた。
◆◆
踏切に嵌り込んだ軽乗用車に通勤快速が衝突し、脱線。
死者34名、重軽症者110名を出す大事故となった。
みちるは、たまたま通勤途中にその踏切を通りかかり、事故を目撃した。
すでに救急車が見たこともないくらいの数乱雑に停まっており、合間あいまに消防のレスキューが赤く挟まり、あたり黒い煙が趣味の悪い屏風絵のように景色を所どころ覆っている、そんな報道写真を何枚か見た。
最初にその写真を見た時、正直思った。
僕がその場に行き合わせていれば良かったのに。
何ならば、この中に倒れている者のひとりでもいい。
死を、痛みを、苦しさを
他から与えられた、不可抗力としての死を一番欲していたのは僕だった。
◇◇
みちるは、乗っていた自転車を脇の空き地に停め(すでに、通行不能となった車や交通整理のパトカーなどでそこも一杯だった)、好奇心も手伝って事故現場に近づいていった。
野次馬というものが存在しない場所だった。
人は多かった、電車から運び出された人びと、ちらかった荷物、周囲から集まった救急や消防隊員たち、事故の衝撃に直接晒されていなかった人びとが、束の間のチームを組んで声を掛け合いながら、ひしゃげたような金属の塊の、やや被害の少なそうな部分から次々とニンゲンを運び出していた。
つんと刺激のある甘い匂い、ものの焦げる匂いと熱の合間に、惨状が見えた。
みちるは引き寄せられるように、倒れてタンカを待つ人たちの中に入っていった。
死にゆく人びとは、彼女が何者かがすぐ解り、血まみれの手を次々と伸ばした。
みちるはすぐ近くの一人――まだこの春から働き始めたばかりのOLだった――彼女の手をとり、脇にしゃがみこんだ。
「聞いてくれますか」
聴こえるか聴こえない程の声。しかし、みちるはしっかりとそれをすくい上げた。
「はい、どうしましたか」
いつものように、みちるは聴き始めた。
◆◆
みちるに逢いたい、みちるに心をあけ渡したい、僕の全てを知ってほしい、そして知りたい、彼女の全てを。どうして人を癒すことができるのか、いつから、どんなきっかけで……
そして、人を癒すときに自分はどう感じているのか。
僕には感じられた。あの写真のまなざしを見て。
彼女は、何かを求めていた。激しく。
人を癒すという特別な力に魅せられたのではない、その、燃えるようなまなざしに焼かれたのだ。
その目はこう叫んでいた。
私を救って、と。
そしてそれを救えるのは僕だけだ、即座にそう感じとった。共鳴と言えばいいのか、共振か。
走り出すには、十分すぎる動機だった。
◇◇
彼にどう伝えたらいいのだろう。
「みちるは、死んだ」
私は確かに、そう口にした。
しかし彼にはそれは単なることばの一つに過ぎないようだった。
「会わせてください、みちるに」
なぜなら、彼はまたそう迫ってきたから。
「死んだのですよ」
私は、空しく繰り返す。
彼が黙ったので、私はもう一度、繰り返した。
少しの間があった。
おもむろに、彼は立ち上がった。
右手の人差指をぴんと伸ばし、緊張した面持ちで。
その目はまっすぐ、私を見つめていた。
◆◆
僕が立ち上がった時、彼女の表情はなかった。凍りついたような目つきだった。そして僕が銃を構えた時にもその表情は変わらなかった。そう、そうきたの、その目が語りかけていた。解った、貴方はそういう解決しか思いつかないのね、それはよく解っていた。僕は撃つ、一発。特に反応はなかった。二発、三発……赤いものが前にとんだ。彼女の体からスローモーションの弧をみせて、美しい血が宙を束の間彩る。「何故撃つの」ようやく彼女が口をきいた。「みちるを殺したから? 私が」僕はうなずく事もなく、更に撃つ。血しぶきは目の前の白いテーブルクロスを鮮やかに染めていく。いくら彼女を撃ったとしても、みちるが生き返るはずはない。そんなことは解っていた、僕だって。撃つ、うつ、ばん、ばん、ばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんばんゲシュタルト崩壊は僕の側だろうか、それとも
◇◇
私のほうだろうか。
粉々になるまで、私は撃たれてその場に斃れた。
意識は無いはずだ、なのに、暗がりの中に一すじの光が射す。
うっすらと白く見える丸い輪の中に、黒い人影がじっと佇んでいた。輪郭はぼんやりとしてあいまいだったが、それが人間だということだけは判った。
彼は、私を抱きかかえた。
私も、彼の身体に腕を回し、しっかりと抱きしめる。
流れ込む、彼の全ての思い。
声となって、私の心の中に直に響いてくる。
「今までで……
◆◆
今までで一番好きだった本はウミガメの出てくる何か不思議な漂流記だった。どこまでも詩的で、幻想の中を漂っているような物語。どんな意味があったのか今では覚えがない。ただ鮮烈なイメージのみが残っている、あれは19の時だろう。大学は中退していたのでずっとバイトで食いつないでいた。学校でもひとり、浮いたような気分だった。誰とも話をしない、学食でも、教室でも。僕と話をしていると誰もが気まずいような思いにとらわれてしまうのだろう、こちらだってそれは同じこと。気まずくさせるのは昔から得意分野だった。何故か僕がいると会話は止まってしまった。父と母とは仲が悪かった、小学4年の時に離婚した。僕はどちらからも引き取られず、祖父母と暮らすことになった。何故なのか教えて貰えなかった。毎晩泣いた。泣いて戻ってくるわけがないというのは判っていたが、それでも涙は勝手に出た。おばあちゃんが添い寝をしてくれようと布団に入ってきたが、おばあちゃんはヘンな匂いがするから嫌いだ、と突き飛ばしてしまった。その事については叱られなかったけど、それからずっと気まずい雰囲気だった。両親も、きっと僕の扱いに困ってどちらからも引き取ろうと言ってこなかったのだろう。元々望まれない子どもだったと聞いた。望まれず生まれてくるというのは、どういうことなんだろう。それまで絵本や物語の中の子どもらというのは、だいたいが望まれたり、認められたりして生きていた。少なくとも、本の世界で僕はそういう子どもにしか出遭ったことがなかった。にんじんですら、完全に拒否されていた訳ではない。彼の母親には、愛情という感覚が確かにあったのだ、それがいくら歪んだものとは言え。そして父だって不器用なりに彼のことを愛していた。それが僕なんてどうだろう、誰が僕を愛してくれたんだ? そして、誰が気にかけてくれたのだろう、あなただって同じだ、みちる。あなたは全ての悩める人の声を聴こうとして、実際に人びとの声を聴いた。なのに、誰があなたの話を聴こうとしたのだろう?
写真で見たあなたの目は、そう、周りの人間に対する激しい憎しみに満ちていた。
それは今のあなたと全く同じ、あなたは人を救うという力を持っていた時ですら、周りを激しく憎んでいたのだ。
何故だ?
◇◇
共感というのは、能力ではない。共感というのは単なる習慣のようなもの。その人が元々備えている習性でしかないのだ。そんな人間は他人と向き合った時に相手の声を聴こうとする、そしてそのことばに相槌をうち、「その通りですね」と答える。そして更に、相手の深部にたどり着く。深く、ふかく対する人間の中へと食い込み、その人格を全て肯定する。相手の行いについてではない、その人格の本質を認めるというところが共感の真髄だ。相手は聴いてもらえれば喜ぶ。そして、更に語ろうとする。そしてそれもまた、私の中に取り込まれていく。私の中に再構築される彼、彼女。それが完全なる姿に近づけば近づくほど、相手は『生きている』という充足感が味わえる。酷い行いは洗い流され、泥の中の砂金のように純粋な核だけが残る。それはあたかも、私の中にある大地に埋められて芽を出し、更に成長していく大樹のようなものなのだ。
私はそんな種を拾い集め、自分の中で育み見守るのが長年の習慣となっていた。それが良いのか悪いのかも自分では判断がつかずに。
単なる習慣でやっていた事に対して、大きな賛辞を受けて人びとに感謝される。理由が解らずに賛美され、とまどいも疑念も聞いてもらえないまま、更に他人の思いを押しつけられる。
みちるは、純粋なる大地だった。人びとの心という種を育てる生粋の培養土。
さしずめ私は、みちるという肥沃な土を振るいにかけた後の、残り滓のようなものだ。
もちろんその当時、みちるだってただ単にお人よしの聴き上手だったわけではない。時には相手の意見に反発し、衝突も繰り返したこともあった。
それでも結局は、彼女は折れて相手の意思の下に組み伏せられていたのだ。
いくつも相談を受け、彼女はボロボロに疲弊していった。元々、彼女の中にもドロドロしたものはあった。通勤列車に乗る時に他人を架空の銃で撃ち殺したり、時にはガソリンを掛けて頭から火をつけたり。
しかし、そんな情景は誰が目にできただろう? あなたも同じく、いくら何人殺しても決して捕えられることはない。私を撃った時のように……激しい殺意だけでは相手は殺せないのだ。
「だったらなぜ、みちるは死んだのか?」彼が尋ねた。
みちるを殺したのが、私自身だから。
タドコロ・ミチルはその力を完全に失った。たくさんの苗木を立派な大木に育て上げた大地はついに、やせ衰えてただの石ころだらけの土地に変貌してしまったのだから。
みちるはある朝、目を開けたままこと切れていた。
私がとどめをさしたのだ、この手で、撃ち殺したのだ、こんなふうに。
人差し指を出してみせる。
それはまるで、母が私に頼り切っていたときのように。彼女は時に人差し指を立てて、私の額にあてた。美千留、お母さんと一緒に死のうか。もう生きていても仕方ないでしょ。
「おかあさん」私は死にたくなかった。何でもいいから、彼女を引きとめておかないと。そうしないと殺されてしまう、一緒に。
「どうして、そう思うの?」
「聞いてくれるの、美千留」
「もちろん」
母の話はとりとめがなかった。いつまでも続いて私を苦しめた。単なる打ち明け話なのに、自分の存在が重くのしかかってくる。あなたが生まれてからパパは逃げてしまった、あなたが生まれたから、パパは。私を苦しめて、苦しめて母はずっと語り、そして最後には死んでしまった。私だけを置いて。
大きな樹は私の中に勝手に根を下ろし、そして私を下敷きにして斃れてしまったのだ。
◆◆
僕は、倒れたままの彼女を抱きかかえたまま、その目をじっと見つめた。
憎しみの影は消えていた。
そして、僕の胸の中からもいつの間にか憎悪の感情は洗い流されていた。
どちらの目からも、涙がこぼれ落ちている。泣いているという感覚はなかった。
「みちる」
ぼくは呼んだ。その目を見つめながら。
彼女は、そっと応える。
「言ったでしょう……みちるは、死んだんだって」
そう、みちるは死んだのだ。今度こそ完全に。
そして、その燃え尽きた灰の中から、田所美千留という女性(ひと)が新しく生を授かり、僕の腕の中に降りてきた。
「もう、あなたの心を無条件に取り込むことはしない、二度と」
力を完全に失った女性は、急に頼りなく、はかなげに見えた。
それでいい。共感だけでなくていい。時には拒否することも大切だ。僕たちはお互いに対等な人間として向き合おう。
僕は語りたい時にあなたの心に語りかけるから。
聴いてくれても、くれなくてもいい。
「……人を殺すのはもうやめられるだろうか、あなたも、私も」
努力しよう、お互いに。そして
「一緒にいてくれない? ずっと」
新しいその人をじっと見つめたまま、ぼくは深くうなずいた。
了